キム・ギドクの『悪い男』
キム・ギドク監督が亡くなった。好きな監督だった。初めて観た『悪い男』でいっぺんで好きになった。
それから過去作をレンタルして全部観て、新作は封切りが待ち遠しくて必ず劇場に足を運んだのは『メビウス』まで。その後なんとなく新作のチェックを怠っているうちにスキャンダルのニュースを知った。ありそうなことかも知れないと思った。
それから新作の公開規模がとても小さく短くなり、ますます観る機会がなくなっていた。
映画評論家の町山智浩さんが、キム・ギドクの映画はすべてセクハラ映画ですと呟いていらした。そうなのかもしれない。
何人もの女性が嫌な目に遭ったのは本当かも知れない。キム・ギドクのことを好きかはよくわからなくなってしまったけれど、それでも私はキム・ギドクの作品が好きだ。他の監督には感じたことのない、すごく鋭利に自分に響く好きなところがある。
それは後ろ暗かったり背徳的だったりもするのだけど、私にはそういうところがあるからだと思う。
常識とか善悪という軸で語ると後ろ暗いとか背徳的ということになるのだけど、私の心の本当の部分では、なにも悪いことだとは思っていないようなところ。ひっくり返せば純粋で綺麗だから残酷なところ。人には言わないけれど。
『悪い男』は、あまり見たことのない愛の話だ。愛の表現や発露の仕方に正しいも間違いも良いも悪いもないと思う。ふたりの間だけにある何かで、ふたりにしかあり得ない絶妙なバランスの上に成り立つ何かが、オリジナルであればあるほど、生まれてきた甲斐があるってものじゃない。そんな愛に出会ったことあるのかと言われたらちょっと首をかしげてしまうけれど、そういう経験を本当はみんな求めているんじゃないのかな。
人がギョっとするような、決して誰からも憧れられない褒められたもんじゃない美しくもないおかしい愛の形が存在するのは、そういう形でしか表現できないのは、セクハラとはまた別の話のように思う。セクハラは、代替可能な相手に対してのただの力任せな欲望の発露だと今の私は認識している。
正しいとか正しくないとか良いとか悪いとかの中に人間の営みがすべて収まるわけがない。ってキム・ギドクは映画で描いて、私生活もそうであった。という人生だったんだと思う。
今年の年末年始は、ひとりキム・ギドク祭を開催するつもり。