をふの日記

毎日頭の中をお掃除するために書く日記

落ち葉の話いろいろ

 

  最近1番目立っているものといえば落ち葉だ。右見ても左見ても上見ても下見ても落ちが目に入ってくる。毎日自宅の前を綺麗に掃いても、また翌日飽きもせずに落ちているのも、この季節だけのことで面白い。

 

  知り合いが、「銀杏は黄色くなるだけだけど、桜の葉っぱは黄色かったり赤かったり茶色かったりするので面白い」とおっしゃっていて以来、桜の落ち葉を用心して見ている。本当にその通りで、桜の落ち葉にはてんでバラバラな個性があり、言われるまで全然気がつかなかった。

 

  昔、木版画に使われる、ばれん(紙に絵の具を染み込ませる際にこする道具)を作る職人さんについての小話をお聞きしたことがある。

  ばれんは、表面を竹の葉で包んで作られる。その竹の葉は、普通に生えている状態や、落ちている状態のものではいけないらしい。ちょうど竹から離れて、はらりはらりと散り落ちる瞬間のものを使わないと、いいばれんは作れないそうだ。

 

  そのため、ばれん職人さんは、日がな1日、葉が散るのを目を凝らして待っているとかいないとか。本当かどうかしっかり確かめたことはないけれど、その話はいいなと思ってずっと心に残っている。

 

  数ヶ月前に、上野の芸大美術館で『あるがままのアート-人知れず表現し続ける者たち-』というアウトサイダーアート展をやっていた。そこに出展されていた渡邊義紘さんは、くぬぎの落ち葉を折り紙のように折る「折り葉」で精密な動物たちを作る。

 

  カラカラになった落ち葉で形を作ろうとすると、パリンッと割れてしまう。逆に湿りすぎていると、形にならない。渡邊さんの作品作りは、折って、形状が記憶される絶妙な湿度の落ち葉を見つけることがとても重要になる。その勘所は、ちょっとやそっとのことでは身につくものではない職人技だ。

  

  落葉の季節、木はひと巡りの終わりを迎えながら私たちを刺激する。落ち葉を掃く人、観察する人、待ち構える人、見極める人。人間たちがめいめいに反応する。

 

 

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吉開菜央特集上映『Dancing films』

 

  いま、ユーロスペースで上映されている吉開菜央さんの映像がすごかった。吉開さんは米津玄師さんのlemonで踊っているダンサーで、自身も映像作品を作られる方。

 

  ダンサーならではの、ビンビンに鋭敏な、狂気に近いくらいの知覚で感じた世界をそのまま反転させてアウトプットしたような作品群は、観ているこちらの知覚を恐ろしいほどに刺激してきて、静かに興奮してくる。

 

  見ている間中、ずっと肩から両腕にかけて、えもいわれぬゾワゾワした感覚がつきまとっていた。視覚だけではなくて、音の持つ触覚が私の両腕を掴んで入ってきて、内臓まで届く感じだった。

 

  触覚って、本当に真剣に研ぎ澄ませてゆけば、いつか内臓の内壁の感覚も拾えるようになりそう、という今まで思ってもみなかった希望を感じた。

 

 今日はBプログラムだったから、会期中にもうひとつのAプログラムも観に行こう。これは見逃してはならぬ。25日までだ!いそげ!

 

  付け足しのようだけど、上映後のトークとライブパフォーマンスも、すごく面白かった。

 パフォーマンスでは、触れられる視覚と触れられる聴覚というものを感じて、それまで観ていた映画の体験がひっくり返るような、不思議な体感があった。 目を閉じていても何かを感じられる身体を私たちは持っていると、嬉しくなった。

 

 

https://naoyoshigai.com/

 

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キム・ギドクの『悪い男』

 

  キム・ギドク監督が亡くなった。好きな監督だった。初めて観た『悪い男』でいっぺんで好きになった。

 

  それから過去作をレンタルして全部観て、新作は封切りが待ち遠しくて必ず劇場に足を運んだのは『メビウス』まで。その後なんとなく新作のチェックを怠っているうちにスキャンダルのニュースを知った。ありそうなことかも知れないと思った。

  それから新作の公開規模がとても小さく短くなり、ますます観る機会がなくなっていた。

  

  映画評論家の町山智浩さんが、キム・ギドクの映画はすべてセクハラ映画ですと呟いていらした。そうなのかもしれない。

 

  何人もの女性が嫌な目に遭ったのは本当かも知れない。キム・ギドクのことを好きかはよくわからなくなってしまったけれど、それでも私はキム・ギドクの作品が好きだ。他の監督には感じたことのない、すごく鋭利に自分に響く好きなところがある。

  それは後ろ暗かったり背徳的だったりもするのだけど、私にはそういうところがあるからだと思う。

 

  常識とか善悪という軸で語ると後ろ暗いとか背徳的ということになるのだけど、私の心の本当の部分では、なにも悪いことだとは思っていないようなところ。ひっくり返せば純粋で綺麗だから残酷なところ。人には言わないけれど。

 

  『悪い男』は、あまり見たことのない愛の話だ。愛の表現や発露の仕方に正しいも間違いも良いも悪いもないと思う。ふたりの間だけにある何かで、ふたりにしかあり得ない絶妙なバランスの上に成り立つ何かが、オリジナルであればあるほど、生まれてきた甲斐があるってものじゃない。そんな愛に出会ったことあるのかと言われたらちょっと首をかしげてしまうけれど、そういう経験を本当はみんな求めているんじゃないのかな。

 

  人がギョっとするような、決して誰からも憧れられない褒められたもんじゃない美しくもないおかしい愛の形が存在するのは、そういう形でしか表現できないのは、セクハラとはまた別の話のように思う。セクハラは、代替可能な相手に対してのただの力任せな欲望の発露だと今の私は認識している。

 

  正しいとか正しくないとか良いとか悪いとかの中に人間の営みがすべて収まるわけがない。ってキム・ギドクは映画で描いて、私生活もそうであった。という人生だったんだと思う。

 

  今年の年末年始は、ひとりキム・ギドク祭を開催するつもり。

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縮んだ1000円札

 

  洋服のポケットに1000円札を入れたまま洗濯し、さらに乾燥機にかけてしまった。乾燥機を開けたら、クチャクチャの塊になった1000円札がポトッと落ちてきた。

 

  あまりにクチャクチャだったので、もう二度と開けなくなってしまった…と思って、しばらく洗面所のアクセサリー入れの上になんとなく置いたまま1週間が経過。保留というか結論の先送りだ。

 

  今日は友達が家に来たので、せっかくだから見せてあげようと思った。もう開かないよね、と言いながら試みに広げてみようとしたら、紙同士が癒着することもなく意外とうまく開いた。ティッシュなぞ洗濯してしまうと、もうよくわからない張り子みたいな着火剤みたいな塊が出来上がってしまうけれど、お札の紙質の良さ恐るべし。

 

  なんだ開いた!と思ってシワを丁寧に丁寧に伸ばしてみたが、なんか変。…小さくない?

シワを差し引いても小さいでしょう。

 

  友達が定規で測ってくれた。縦2ミリ、横3ミリ縮んでいた。978円くらいになってしまった。

 

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佐藤良成ライブ

 

  かれこれ15年くらい前、下北沢のラ・カーニャというお店で毎週木曜日に佐藤良成がライブをしていた。今思うと贅沢だ。

 

  始めて聴いた時から、声の響き方がすごく好きだった。対面して聴いていても、直接自分の前面に届いて身体に入っていくのとはちょっと違って、空間全部の空気を震わせてから、自分の身体と空気の境界線をぼかすように音が身体全体を包むように入ってくる感じ。自分の目の前で歌っていて、スピーカーはいろんな位置にあるのに全身から均等に音が入ってくる感じがするのはなんでなんだろう。

 

  わからないけど、とにかくその響き方が心地よくて、佐藤良成は絶対ライブで聴きたいうちの1人になった。生でしか体験できない不思議にいつも興奮する。そして声の素敵な人を信じている。

 

  ここ数年は、ラ・カーニャでのライブは年末だけやっていて、毎回超満員で脱いだ上着の置き場もないくらい。この年末ライブに、初めて佐藤良成のライブに一緒に行った友達と15年前と変わらず一緒に行くのが、年末の恒例になっていた。

  そんな中今年は、秋頃から毎週木曜日のライブが30名限定で復活とのこと。ちょっと早い年忘れにまたふたりで出掛けた。

 

  すごく良い。15年分の時もいっぺんに感じた。

  どんな仕事をしていた、誰と付き合っていた、髪の毛をバッサリ切った、泣きたいような気分だった、引っ越したてだった、犬を飼いはじめた、、、佐藤良成のライブに行った思い出とその時々の自分たちが定点観測のようにリンクして引っ張り出され、ちょっと圧倒されてしまった。

 

  思い出は重みがあるけれど、同時に記憶でしかないのでとても軽い。歌・音楽というのは思い出と質が似ているんだろう。  しっかり実感がありながら、その場を過ぎれば何もなかったことのよう。

 

  今日、すごく良かった。とあの場で同じ空気を体感した人達は、ひとり残らず100年後にはこの世にいない。100年後には全部なかったことになる毎日をみんな生きている。

 

 

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ご婦人の小話

 

  最近出会った85歳のご婦人がいる。若い頃は薬学の研究者をされていたそうで、いつも頭の中がスッキリ整理されているような、聡明な話し方をされる方だ。その方から聞いたお話。

 

①なめくじが嫌いなのだが、テレビでナメクジが特集されていた。夫にすすめられて嫌々ながら観てみたところ、ナメクジがいかに賢いかということを伝える内容だったそう。夫に「ほら、ナメクジは賢いだろう」と言われたが、「賢くたって好きになれるもんではない」とのこと。なにか人間界のことを言われたようである。

 

②嫁入りをしてから夫の両親と長らく同居をしていた。嫁姑関係に苦労した。四六時中家事をし、少しでも時間が空けば姑にマッサージを頼まれ、自分の時間を持つこともなく、心を押し殺した数十年を送っていた。

 

  60代になり、姑舅を見送りやっと自由な時間ができたら、それまで抑圧していたわけのわからぬものがマグマのように込み上げてきた。      

  声が近所に聞こえぬように、毎日タオルを口に押し当てて絶叫して過ごしていた。このままでは気が狂ってしまうと思い、夫に「精神病院に入れてください」と頼んだ。「そんな所に入ったら戻って来れないから、歌をはじめなさい」と言われた。

 

  オペラの先生を紹介してもらい「それから数年間は、とにかく歌いに歌いに歌いました。そうしたら治りましたよ」。数年前には「ドラム教えます」の貼り紙を見てこれはと思い、しばらくの間若いバンドマンにドラムを習った。「こんなおばあちゃんが来て先生も驚いたんじゃないかしら」とおっしゃるご婦人は、どんな状況の中にもどこか軽さとチャーミングさを備えている。

 

③公園などを散歩していて、老夫婦が仲良く手を繋いで歩いているのをよく見かけるそうだ。「うちの夫は昔から全くそういうことをしないけれど、見ていると羨ましいです」「私なんかは、夫が出掛ける前に身だしなみを整えるときに、背中や胸をポンポンと払って触れるようにしているけれど、夫はまったく触れてくれない」。多くの妻は同じことを思ってるんじゃないかな。

 

 

  膨大な出会いや出来事や時間の点の重なり合いの上に人は存在しているとは思っていたけれど、ご婦人のその小さな点の1つに私も近頃入れたことが嬉しい。

 

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もう30日寝るとお正月

 

  もう2月?もう3月?もう4月?もう半年経った?もう秋?なんて、今年は時の流れの速さに驚きっぱなしだった気がするけれど、ついに12月まで来てしまった。

 

  新型ウィルスを言い訳に、地に足のつかぬ夢か現かわからぬ日々を過ごしていたら、もう年の瀬だ。いよいよお正月の背中も見えてきた。来年もこんな様子なら開き直って、お花見もするし海水浴も行くし身内で盆踊りだってしたい。

 

  よくアメリカの映画に出てくる、大学の卒業式で学生帽を頭からとって、パーッと一斉に空に投げるシーン。あんな感じでみんなでマスクを取って一斉に空に向かって投げたら、どんなに晴れ晴れした気持ちになるだろう。

 

  あんまり長い年月に渡ってマスクをしていると、いざマスクを取ったらみんなの口がなくなったりしていそうだ。そして取ったマスクの裏に口がへばりついていたりして。

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